米子・美保関ライトワーク①「弔い」
皆様、こんばんは☆
ミドリです。
今回は、ようやくではありますが、昨年秋分に出向いた米沢と美保の地での現地ライトワークについて、ご報告させて頂きます。
気づけばもうずいぶんと時が経ってしまっていました。
時間が経つのは本当に早いですね。
実は今回の内容は、ご報告するべきかしないべきか悩んだ時もあったのですが、
高次の方々の後押しもあり、またこの秋分の一斉イベントに皆様をご招待した関係もありましたので、
思い切ってお届けさせて頂くことになりました。
いつもお伝えしていますが、これは私にとっての真実の世界の話でありますので、
今回も不思議な物語の読み物を読まれるようなおつもりで、読んで頂ければ幸いです^^
そしてまた多くのライトワーカーの方々にとって、ご自身のライトワークの何かの一助になれば、という願いも込めて、また私の大切な旅の記録として、綴らせて頂きますね。
今回のお仕事の地は、初めての来訪となる山陰地方となり、
美しい日本海を臨む、鳥取県と島根県の二県に出向かせて頂きました。
自分の過去世の記憶によるものなのかわからないのですが、私は日本海の海を見ると、本当にどこよりも美しいと、ひたすら感極まってしまうんですよね。
そんな美しい山陰での目的の地は、米沢の粟嶋神社、そして美保関の美保神社でありました。
今回は私がずっと長い間、事代主命よりご依頼を頂いていましたお仕事の遂行となり、これらの地は古代東出雲王国のエリアとなるのでした。
事代主命の私へのご依頼というのは、
古代出雲の悲しみであり、古代出雲から長きに渡り決して癒えることも癒すつもりもなかったともいえる、事代主命ご自身の存在、お命に関するものでありました。
事代主命は東出雲王国の祖神であり、古代出雲王国の第八代目副王でありました。
出雲の悲しみの歴史は、この事代主命と共に八代目主王である大国主の二人の王が暗殺されたことから始まります。
それは大和国の発端となる大変重要な事件であると同時に、
事代主命の出身王家富家を中心とした東出雲王国、そして全ての出雲族にとって、深い深い遺恨を残すことになったのです。
事代主命は今回私が出向かせて頂きました粟嶋神社の地にて、枯死されたのでした。
粟嶋神社のある周辺一帯は、古代は海でありました。
「粟嶋」の名の通り、粟嶋神社の鎮座する小高い丘は、当時海に浮かぶ小さな島でした。
死のいきさつは省きますが、
事代主はこの小島で孤独に命を落とすことになったのです。
発見された事代主命の亡骸は埋葬され、埋め墓は松江に今も存在していますが、
事代主命の人間としてのそのお命は、ずっと癒されることがないままだったのです。
事代主が癒されていないということは、東出雲国のすべての方々が癒されていないということ。
私が今回事代主から仰せつかったお仕事は、
事代主命ご自身を癒し弔うことであったのです。
2025年9月22日、秋分を明日に控えた新月の日。
この日は朝からとても良いお天気で、透き通るような青空が広がっていました。
早朝羽田から米子空港に向かった私は、
行きの飛行機の中で、様々な高次の方々から情報を頂かせて頂いていました。
いつものように、目的地への往路の時間はお仕事の準備に全てがあてがわれます。
今回は不思議なことに、出雲の地へと向かう旅であるのに何故か富士王朝の方々にもいらして頂くことになり、出雲の方々と共に富士王朝の方々からも何故かサポートを頂くことになりました。
富士王朝は縦に伸びる王朝で、出雲王朝は横に伸びる王朝であり、
この空は富士王朝が担っている、などといった、富士王朝も絡む情報をいくつも頂きましたが、
この時の私にはそこまでのことはよくわからなかったというか、これから行う出雲のお仕事以上の内容はキャパオーバーでしたので(;'∀')、
この日のお仕事に必要なサポートと情報のみに徹することにさせて頂きました。
いつものことではありますが、この時私にはほとんど余裕がなかったのです。
ついにご依頼をお受けしたものの、
私が事代主命を本当に弔うことができるだろうか、
今回の大きなお務めに、心が張り詰めていました。
出雲の悲しみの歴史の大きな起点となっている事代主命の死は、
出雲族全体に癒されない深い傷となって、ずっと血を流し倦み続けていました。
古代巫女であった過去世の私が当時敬愛してやまなかった出雲族の方々ですが、
彼らは何というかとてもお人よしでやさしすぎる性質であったが故に、そもそも戦うことが全くといっていいほど苦手な氏族でありました。
そしてそれだけではなく、彼らはあまりに心がやさしさすぎるが故に、悲しみに向き合うこともできなかったのです。
例えばそのことは古代出雲人の王族の埋葬の仕方にも色濃く現れていました。
彼らは伝統的に風葬を好み、遺体は竹籠に納められ遠くの山に置かれます。
そして3年後遺骨を回収し、山の頂上の磐座のふもとに埋葬し埋め墓としたのでした。
出雲は両墓制であったので、その埋め墓とは別に屋敷のそばにも石を置き拝み墓とし、日常的な祈りや祭祀はこちらで行いました。
彼らには、死体を穢れとし、特に王族は近寄ってはならない、という習わしがあったのです。
この風葬の事実を知った時の今世の私は、先祖を大変敬い大切にお祀りする出雲族であるのに、
その亡骸は徹底して切り離し忌み嫌うというこの風習に何とも冷淡な印象を受け、不思議に思ったものでした。
もちろんこうしたやり方は古代のアニミズム的要素もあったのですが、
私が今回受け取った情報によると、
ただ彼らはつらくてつらくて、大切な人の死にとても向き合うことができなかった、
ということが一番の理由であったというのでした。
そんな彼らが、殺人などといった事件に向き合うことができるはずもなく、
それもその時の東出雲王家のトップであった大切な大切な事代主命が暗殺されてしまうなんて、
あまりにもつらくて悲しすぎて、彼らは本質的に事代主命を弔うことができなかったのです。
出雲族はある意味度を超えて心がやさしすぎたため、
能動的に仲間の死を弔うことが実はとても下手な氏族であったのでした。
だから、いつまでも残ってしまう。
だから大いなる自然にゆだねることしか方法がなかった。
いつでも自然と大地と調和し、
そもそも争うという概念がなかった出雲族は、
結局王を暗殺した側を死刑に処すことも復讐することもできずに、
事代主命と共にずっと悲しみを生きてきたのでした。
出雲王国はその後も裏切りや度重なる他からの侵攻、戦争などによって、最終的に王国が滅びることになりますが、
もちろん彼らもその間、軍を編成し戦うようになっていったものの、
やはり彼らは本質的にそうした営みが向いていなかったであろうことは、歴史から観ても明白でした。
しかし、戦わなくては自らの国を護ることができなかったのです。
出雲族たちがどんな想いでその悲しい歴史を生きていったのか、
それを思うと私の心にも耐えがたい痛みが走るのでした。
完成した3次元人間世界へディセンションする前の、ある意味で神代の民族ともいえる氏族の一つであった出雲族は、
そういう意味で人間としてはまだ不完全、未完成であったのだと、
私は飛行機の中で教えて頂いたのでした。
今回のお仕事では、私がその長い長い東出雲の悲しみの原点に、
ついに癒しを施させて頂くのでした。
米子空港に到着しました。
はじめて降り立った米子の地にも、美しく澄み渡る快晴の空が広がっていました。
この日2つの県を行き来しなくてはならない私は、事代主命の生きた地に降り立ったという感慨に浸る暇もなく、到着早々タクシーをつかまえて、粟嶋神社に直行しました。
車内からはじめて目にする米子の景色を眺めながら、
お仕事の最終準備を整えさせて頂きました。
粟嶋神社の入り口です。
奥に見える小高い丘が粟嶋神社となります。
この鳥居は実は二の鳥居であるのだそうで、一の鳥居は干拓前の海岸線にあったということでした。
江戸時代の干拓以前この辺りが海であった時、名前の通り本当に「島」であったこの「粟嶋」は、今は小さな山となって、事代主命の聖域を長きに渡り護ってくれていたのでした。
この粟嶋の森は「神の宿る森」としてこうして千年以上も護られてきたため、その植生は大変珍しく、鳥取県の天然記念物、また米子市の名勝にも指定されているそうです。
さていよいよ二の鳥居から三の鳥居へと、心を落ち着けながら参道を進みます。
三の鳥居は神社の本体となる小山の入り口となっており、
その向こう側には187段の石段が、山頂の境内へと続いていました。
今回最も重要となるお仕事は、この鳥居をくぐり山の裏へと右手に回っていく必要があったのですが、
まずは導かれるままに、山頂へと向かわせて頂きました。
それにしてもこの187段……
た、大変でした(;'∀')(;'∀')
急な勾配のため、途中で止まると落ちそうになって逆に危ないので、一気に登らないとならず、
いったい自分が何をしに来たのかわからなくなってしまうほど、気の遠くなるハードな時間となりました;
勇気を出して途中でちょっと振り向いてみた時の画像です。
今見ても怖いです~。
瀕死になりながらも何とか頂上に近づくと、だんだんと周囲のエネルギーが変わってきました。
粟嶋の森の精霊たちがにわかに騒がしくなっていきます。
お邪魔させて頂きますね、
どうか私がお仕事を遂行できるように助けてねと、
皆にあいさつさせて頂きました。
ようやく頂上の境内の入り口、随神門に到着しました。
脚はがくぶるだったけれど、気持ちは一気に引き締まっていきました。
待っていました、
〇〇、貴方を待っていました
さあ事代主命さまを弔ってください、
これ以上は待たせないでください
早く事代主命のもとへ、
早く楽にしてあげてくださいー
粟嶋の森の精霊たちが口々に伝えてくるのでした。
彼らは光となり風となり、私にまとわりついて、
事代主のもとへと早く私を連れていこうとします。
この頂上の地はとても悲しくて悲しくて、
私はすでにいつのまにか涙が止まらなくなっていました。
境内には事代主命の悲しみが深い濃霧のように立ち込めていたのです。
そして、歩を進めるうちに、
「〇〇」
と事代主命の私を呼ぶ声が聞こえたのでした。
よく来てくれました、
私のところへ、
私を弔って頂きたいのです、
貴方が来るのを私はずっとずっと待っていたのです、
やさしく静かで、そして切実な事代主命の語り掛けに、
私はついその時の素直な心を言葉にしていました。
私にできますか
ここまで来て今更、と思うかもしれませんが、
私はまだ少し怖かったのです。
成功できなかったらアセンションがどうなるか、というようなことよりも、ただただ、
もし私が上手くできなかったら、事代主命に関わる全ての存在が、どんなにもっともっと悲しむことになるのだろうかと、
想像しただけで私は心がつぶれそうになるのでした。
そんな今更気弱な私に、
貴方にしかできないのです、
それを知っているから、貴方はここに来てくれたのでしょう、
事代主命はそう力強く言葉を続けてくださったのでした。
確かにそうなのでした。
古代巫女の過去世を持つこの私自身の出自を思えば、
今世の私の存在の役割というのは明白であるのでした。
だから私はここに来たのですから。
自信を持ちなさい、
〇〇、
事代主命の言葉に、
私は自分の卑近な迷いを断ち、
本殿へと向かいました。
本殿にて、日本神界の神としての事代主命にあらためてご挨拶させて頂き、導きとサポートを頂きました。
観えた答え、頂いた真実は誓いと共に、
私のハートに宿っていきました。
精霊たちの動きがさらに活発になっていきます。
本殿を離れ、粟嶋の精霊たちに導かれるままに今度は本殿の裏手へまわっていくと、
裏の森の間にゆるやかに下っていく坂道がありました。
そのまま道に沿って進んでいくと、突然、中海の美しい景色が現れたのでした。
古代から幾多の歴史を抱き続けてきた中海の絶景が、
全てを知っているように静かにそこに佇んでいました。
事代主と共に在った粟嶋を包むこの中海をしばらく眺めるうちに、
私の最後の躊躇いのかけらも、いつのまにかすっかり消えていったのでした。
さていよいよ今回のお仕事を為すために、
先ほどの187段の階段を再度降り最初の二の鳥居まで戻ると、今度は右方向へと向かいます。
鳥居の右側には摂社や記念塔の並ぶ広場があるのですが、
このまま脇目を振らずにさらに奥の道へと直進していきます。
この先は道が二手に分かれ、
道の先には2つの古いお宮が、それぞれに鎮座しているのでした。
まずは右側の道、お岩さんといわれている「御岩宮」の小さな磐座へと向かいます。
すぐに到着したこちらの「御岩宮」は、
少彦名命が粟嶋に舟で到着され最初に上陸された場所であると伝えられ、霊験あらたかな聖地として今も祀られている、というご由緒がありました。
少彦名命とは事代主命のことですから、
事代主命に関しての伝承が実際に今も残る場所でありました。
この小さなお社がお祀りしているのは、「御岩宮」という名の通り、磐座です。
お参りさせて頂いた後、磐座に手をかざさせて頂くと、
この磐座の中には何もなく、空となっているのがわかりました。
これは、私のこれまでの磐座の調べでは、依り代としての磐座となります。
磐座には実はそれ以外にも様々な機能や用途、お役目みたいなものがあることがわかっていますので、
こちらの磐座は本来の磐座らしい磐座であるといえ、
ここでは古代に神降ろしの磐座祭祀が実際に行われていたことがわかりました。
しかしもうずいぶんと長い期間、ここでその本来の祭祀が行われたことはなく、
今はただ静かに、その空の体を横たわらせていたのでした。
こちらの「御岩宮」ではこの磐座を、古代の依り代であった磐座様として復活させて頂くことになりました。
いつでもこの地で再び磐座祭祀を再開できるように、
浄化と必要な準備を施させて頂きました。
そして祭祀場としての息吹を吹き込ませて頂くことで、
この地の精霊たちも活発化し、聖地としての新しい役割が稼働していくことになったのでした。
こうして無事に磐座を復活させて頂くと、
今度はまた先ほどの分岐へ戻り、隣の左の道へと入っていきました。
次に向かわせて頂くのは、粟嶋の最終目的、「静の岩屋」となるのです。
こちらの道の先には、「静の岩屋(志都之岩屋)」と呼ばれる、人魚の肉を食べて800年の長寿を得たという八百比丘尼が住んでいたと伝わる洞窟がありました。
先ほどの「御岩宮」への道と比べて、こちらの道は森沿いに細く長く淡々と続きます。
何とも言えない張り詰めた濃密な空気の中を無理やり掻いて進んでいくような、不思議な抵抗を感じる心細い道程となりました。
八百比丘尼はその洞窟で命が尽きた、と言われていますが、
その伝承は本当には違いました。
この先に在るのは、事代主命が命を落とした洞窟であったのでした。
歩を進めるにつれ、磐座のような大きな岩が増えてきました。
いくつもの結界が張られています。
八百比丘尼の伝説によってコーティングされた、
事代主命が幽閉された洞窟は、
幾重にも護られ当時のまま残されていたのでした。
突然視界が開けてきました。
美しい美しい粟嶋の自然が広がる光の中に、
事代主命はそこに居ました。
「静の岩屋八百比丘宮」としてお祀りされている小さな洞窟には、
凝縮された事代主命と出雲の悲しみが濃い渦となって、封じ留められていました。
しかしその悲しみはいつしか留まり切れずに外に沁み出してきていて、
外に滲んでいたそのわずかな片鱗に触れるだけで、声を上げて泣きたくなるほどに、
苦しみの果てが感じられたのでした。
この果てのない事代主命の死の苦しみと、東出雲の底のない悲しみを前に、
私はここで何ができるのか、
どのようにして癒させて頂くことができるのかと、
私はこの瞬間に途方に暮れるはずでありました。
しかしこの洞窟を前にした私は、
すでに癒しを開始していたのです。
私がここで事代主命にさせて頂いた癒しとは、「寄り添い」でありました。
この地にて、
拘束され監禁され、枯死するまで放置された事代主命のその壮絶な孤独の時間の全てを、
共に追体験するように一時も離れずに寄り添い同時に味わい続けるという、
言葉通りの「寄り添い」という癒し方を、
私は実施させて頂いたのです。
その時私が観た真実では、
事代主命は伝承のように洞窟の中に閉じ込められたままであったのではなく、
自力で何とか洞窟から這い出し、外に出ることができていたのでした。
ですが身体を執拗に固定して縛られていた事代主命にとって、洞窟から外に何とか抜け出るだけが精いっぱいの行動でした。
事代主命は外に出ることができたものの、この小さな孤島に誰かが助けにきてくれることも叶わず、
這い出た土の上にただ身体を横たえたまま、
身動きもとれずに長い時間を超えることになったのでした。
枯死、とひとことでいっても、簡単に命を終えられるものではありません。
人間は簡単には死ねないのです。
日照りや雨、強風にさらされながら、
飢えと孤独の中で命の灯を消していくことになった彼の最後は、
やはり壮絶なものであったというしかありませんでした。
私はただ、
その途方もなく苦しみに満ちた時間を、
何か術や技を施すでもなく、
同化するようにしてひたすら共有させて頂いたのでした。
共にお命に添わせて頂きながら、
事代主命の人間としての最後の学びは、何と過酷なのだろう、
という思いが何度も私の胸を貫きました。
美しい星の夜も、
上る朝日の輝かしい瞬間も、
その麗美な景色は私たちにとっては刃のようにとても残酷であり、
枯れるまで流し続けた事代主命の涙と私の涙でぼやけ、はっきりと瞳に映すことさえ叶いませんでした。
そうしてついに事代主命の苦しみが途絶えた瞬間、
悲しみの底に沈んでいたこの地が、洞窟を中心に光を放ち始めたのです。
私はここでようやくこの地の鍵を開けさせて頂き、
解き放たれたまばゆい光で事代主命の姿を包み、
さらに事代主命自体の光を新たに創り拡げるようにして、
東出雲を中心にこの出雲という出雲の全てを、その新たな光で包んでいきました。
そして光を一気に上へと解き放させて頂いたのです。
すると、
大きな磐座のようであった洞窟の岩が縦に割れ出し、
粟嶋の土に深くしみこんだ濃厚な悲しみと血の浄化を、一気に施すことになりました。
事代主命を中心に出雲族の全てを上げさせて頂きくことができ、
大きな大きな光の中で、この粟嶋も私も、この世界の全てがこの一瞬で一変していったのでした。
確かに変わった世界の中で、
どこからともなく、東出雲の方々からの「ありがとう」「ありがとう」というたくさんの声と、
言葉にならないような感極まったエネルギーが、次々と私のもとに届けれられました。
私はただ力尽きて、涙すらも流せずにその場で呆然としていると、
事代主命が伝えてきてくださったのです。
私は嬉しいのです、
私の死を知り、私の死のありさまを理解してくれた方がいることが、
貴方が私の死の全過程を受け入れ、一滴も残さず共調してくれたということが
こんなふうにして私の癒しが遂げられたことが、
奇跡でしかないと、
有難くて何と感謝していいのか、
もう私はわからないのですー
私はこうして今回の旅の目的、事代主命への「癒し」を果たさせて頂くことができました。
ただ「寄り添う」というだけの癒し、
ただひたすら共調し同化するという癒しというものがあることを、
私はこの時教えて頂いたのでした。
そして「寄り添う」というこの癒しの威力を、
まざまざと自らの身体で知ることができたのでした。
長く事代主命から頂いていたご依頼を無事に遂行させて頂くことができた私は、
この地での変化と結果を携え、
新しい事代主命と新しい東出雲の皆様と共に、
粟嶋の地から美保関へと、この足で次に向かわせて頂いたのでした。
そして古代東出雲の聖地、美保神社にて、秋分の「豊かさの祭祀」を行わせて頂くことになるのです。
そのご報告は、②へと続かせて頂きます。
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